(2面)

  総選挙の結果と展望

畑中 文治

 

 自・公大敗の原因

 新自由主義政策の破綻

 

  90年代以降の本格化したグローバリゼーション・新自由主義政策の下で、貧困と失業の増大、労働者の権利剥奪と絶えがたい労働強化・実質賃金の低下、地方経済の不振、「自己責任」の名目による社会保障の切り捨て、ひとにぎりの富裕層への富の集中と大多数の働く人々の零落、経済的格差の拡大による社会的秩序の不安定化が進行してきた。08年以降の米国発金融危機とそれに伴う大恐慌型不況は、この社会経済状況や堪えがたいものとした。大衆的憤激はこの経済社会の破綻の責任を政権与党に求め、自・公の歴史的な大敗をもたらした。小選挙区制と、「勝ち組」に便乗するマスメディアの扇動がこれを増幅し、度重なる「政権投げ出し」と不決断が暴露した、長期政権与党としての自民党の質量併せた劣化ぶりが、従来の保守党支持基盤を含めてさらに人々の怒りを掻き立てた。政治の諸要素が、結果をさらに劇的なものとしたが、事態の根底には資本主義的新自由主義政策がもたらした社会経済の破綻がある。この点で、情勢は大きく転換した。今日の資本主義が生み出した矛盾への怒りの中に、政治社会変革の意志の萌芽を見出し、ここに共産主義運動の宣伝・扇動を打ち込まなければならない。

 

   鳩山政権のもとでの政治的流動状況

 

  疲弊しつくされた経済社会を再建する方策は、資本主義社会の維持存続を前提とする限り、財政・金融・雇用政策を通じたケインズ主義による手直しのほかにはない。この点では、わが国の民主党であろうが自民党であろうが大差はない。その限りでは、国民多数の改良的要求にある程度譲歩する可能性はある。新自由主義政策の下で奪われた権利、労働条件、社会保障を自らの闘いによって奪い返さなければならない。

 経済社会政策は、資本主義のグローバリゼーションにあっては国家外交戦略と不可分である。日米軍事同盟の強化を踏襲し没落する米国の世界覇権と運命を共にするのでなければ、政治的経済的に強大化する中国を含む、アジア環太平洋圏の政治経済秩序を構築しなければならない。9条改憲問題は「棚上げ」の状態にあるが、外交戦略の選択肢によっては急速に具体化することになる。その試金石は、言うまでもなく沖縄・普天間基地移設問題であり、日米地位協定の見直しである。辺野古・高江日米軍事再編強化阻止の闘いを強めなければならない。

 いずれにしても、傾きかけた日本国家の外交・内政を牽引するためには、一層強力な政治的ヘゲモニーが必要とされるのであり、したがって民社国連立与党にとっても広範な民衆の意思を集約することが重要課題となる。こうして来年に予定される参院選挙を当面の目標として権力・政党再編がさらに継続する。

 

 我々の戦術・政治介入のポイントは労働運動を基礎とした統一戦線

 

 総選挙と政権交代は、社民党の連立政権参加、共産党の「建設的野党」という態度表明をももたらした。この事態に注目する。また新しい政治的環境に介入する左翼の結集が問われている。ここに共産主義者協議会の課題もある。非正規労働者が立ち上がりはじめ、貧困と失業の中から人間としての権利、社会保障を求める闘いが始まっている。これに呼応した労働者の闘いが求められている。これに取り組む左翼の共同闘争と統一戦線の構築を急がなければならない。これは、とりもなおさず台頭する民族排外主義と対決し、国際連帯によって帝国主義と闘うための基礎となる。新左翼運動の負の遺産をきちんと反省し、労働者階級の経済的解放の展望と、マルクス派共産主義運動の理念を公然と掲げた連合と統一が必要である。

 

生きる権利を脅かす政治にNO!

公正・平等・連帯を!

槙 渡

  グローバリゼーションがさらに世界を席巻する中、@社会保障の切り捨て、A労働市場等の規制緩和(雇用の不安定化)、B民営化の推進、これを三位一体とする新自由主義政策に基づいた「構造改革」が進められた結果、年金・医療・介護への不安、失業や不安定な就労、貧困に苦しむ生活が深刻の度を増した。だれもが殺伐とした競争社会をもたらした自民党の「経済成長」優先政策を疑い、社会のひずみ、不公正、不平等の拡大に怒りを募らせている。

 「経済成長」は、確かに一握りの金持ちには利益を与え、貧しい持たざる者には痛みを押し付けたに過ぎなかった。なのに労働・生産・教育の三大社会権を保障する公的支援やサービスは「先進国」の中で最低のレベルだ。働く権利、生きるための権利、学ぶ権利に「格差」が広がり、失業や貧困に苦しむ人が増えた。雇用や生活は壊れ、医療・介護は荒廃し、地方はシャッター街や限界集落に象徴されるように疲弊、自殺者は毎年3万人を超えている。ところが、こうした「ひずみ」「格差」を拡大した小泉「構造改革」の責任を自覚しないで、安倍、福田2代にわたる政権投げ出し、その後を継いだ麻生の漢字の読み間違えや迷走ぶりは、この国の「政治の劣化」をさらけ出した。

 英国タイムズ紙(電子版)は、社説で「先進国で唯一、一党支配の政治体制を持つ国が、より正常な民主主義へと進化を果たした」と皮肉交じりに衆院選の結果を伝えた。政治はその国の民度を示すとすれば、あんなレベルの政治指導者しかもてないのは、結局我々自身の政治意識の未熟さの問題でもある。ただ政治家たちが民意を代表することができなくなっている現状では、代議制そのもののの劣化は避けられない。今後の「政界再編」の動向次第では、この国のデモクラシーはさらに変質しかねない危うさを抱えている。政権交代でこの国の「劣化する政党政治」を変えることができるのか。

 今回の総選挙は、継続か交代か「政権選択」が最大の焦点とされた。ところが「選挙戦は内向きで目先の議論にほぼ終始した」(8・30付日経)というのが実情だ。民主党には自民党よりもタカ派的な議員がいるし、基本理念(プリンシプル)や政策に大きな違いは認められない。「保守的対リベラル」というような明確な対立軸があるわけでもない。それどころか憲法や安全保障といった政治の根幹においては、似通った右派的保守的な主張が両党内には混在している。政権公約(マニフェスト)も歓心を買おうとするばかりで、社会保障、雇用を巡る政策は大同小異だ。公正・平等な「生きるための権利」としての社会保障をどう拡充していくのか、争点ははっきりしているのに、どの党(事後対応)型の政策しか示していない。自民か民主化というより「劣化が著しい政党政治」(高村薫)をどう軌道修正するのか、どんな未来を目指すのか、社会の在り方を根本から問うのが本来の「政権選択」であるはずだ。

 「民主の圧勝、自民の壊滅的惨敗、この結果は、「変革の声」なのか、「自民への怒りの集積」に過ぎないのか。見方は分かれるが、民主への期待の高さというよりも、少なからぬ人々が不安定な雇用や居住を強いられ、医療や介護の負担の重さに苦しみ、生活に困窮し将来に不安を抱えている、そうした今の日本社会の閉塞状況をもたらした自公政権に怒りを募らせた有権者たちが「もう、たくさんだ!」とレッドカードを切ったことは間違いない。政権交代を選んだのは、長年の自民党政治への怒りの表れなのである。

 だが「2大政党が政権を競う民主主義がようやく上辺だけしか見ていない。05年の郵政民営化を掲げて大勝した自民の議席が今回まるでオセロゲームのように民主にひっくり返った。票差のわりに議席数が大きく変動する小選挙区制の制度的弊害だ。多様な民意を反映するものではない。そもそも民主党中心の政権にはたして社会のひずみ、不公正、不平等を正せるのか、我々は疑っている。生きる権利(生存権)を脅かすアン・フェアな政治にレッドカードを!公正・平等な権利、連帯を!

 

君は映画『バーダー・マインホフ 理想の果てに』を観たか

 

武佐隆樹

 

  映画『バーダー・マインホフ 理想の果てに』(08年、ドイツ・チェコ・フランス合作、監督エリ・エデル)は、最近のドイツ映画の中では『ベルリン、僕らの革命』(04年)に次いで「革命への理想」を生真面目に問おうとした社会派映画といえる。(ことわっておくが、この論稿は、映画の解説ではない。映画を観た者でなければ分からない私の感想をまとめたものである。)

 「バーダー・マインホフ」グループ、後のドイツ赤軍(RAF)のラディカリズムは、自分たちの党派的な「正しさ」を観念化・絶対化したり偏狭なモラリズムに堕することを極力排したところにその特徴があるようだ。ここに私は日本の「連合赤軍」との大きな違いをみた。

 彼ら彼女らを一言で表せば「直接行動主義」とか「武装闘争派」と呼べるのだろうが、「テロリズム」と一括りにしてしまう当世流行の言説には、いささか素直に受け入れたくない違和感を覚える。60年代後半、ベトナムやパレスチナに象徴された帝国主義・植民地主義からの解放を求める民衆の闘い(反帝民族解放闘争)、それに呼応して全世界を席巻した「怒れる若者の反抗」(新しい左翼の反体制運動)、そうした反体制的・反権威主義的な闘いのうねりに脅えて人々の目と耳と口を塞ぎ資本主義の秩序を維持しようとした国家権力・支配階級の横暴・抑圧・偽善、それに加担あるいは沈黙・傍観する「もの言わぬ多数派(サイレント・マジョリティー)」の欺瞞。

 こうした激動する時代に生きて、時には、ジャニス・ジョップリンやボブ・ディランの歌に心を震わせ、目の前の困難に対処できなくなった旧いパラダイムの中でもがきながら、それをモーメントに革命の理想と情熱を燃やしていった、というところに彼ら彼女らの行動力、反抗、怒りのエネルギー源があったのではなかったか。その紛れもない事実を時流におもねて歴史の闇の中に葬り去ろうとする思潮に、私は、どうしても黙っていられない憤りを感じるのだ。

 「テロリズムの根の深さ、その動機を理解しなければ対処することはできない」と語った西独治安機関トップ  日本では後藤田正晴か?  の冷徹な眼差しが、そのような時代状況を逆説的に示唆していたのではないか。いわゆる東西「冷戦」時代の真只中で、しかもその最前線に位置していた   東側に対峙する反共の防波堤  西独で、70年代後半まで銀行襲撃をはじめ駐留米軍への爆弾攻撃、要人暗殺・誘拐、ハイジャック等を繰り広げ得た「策源」(ベース、独語でバージス)は、どこにあったのか。

 歴史的にアナロジーするわけではないが、07年ドイツのハイリゲンダムで開催されたG8サミットに対するカウンター・パワーの規模   万単位のラディカルな行動力・動員力   を見るにつけ、また昨年の洞爺湖サミットに対するしょぼい動員と比較するにつけ、この日本との「差異」「相違」がどこにあったのか考えさせられる。

 私は、武装闘争が間違いだなどとはまったく思わない。そうした言説には腹立たしささえ覚える。ベトナムやパレスチナ、チェ・ゲバラ、そしてサパティスタ等に体現された武装解放闘争を「テロリズム」と同列視して「非暴力」を唱え大勢にへつらう言説には蹴りをいれたくなる。ただし何故、先進国では武装闘争が敗北せざるを得なかったのか、何故失敗したのか、自ら深く追求。総括してきたのか、私たち自身を含め問われざるをえない。それは同時に、多くの過ちを犯したにもかかわらず、自分たちの弱さ・欠陥をごまかし他に責任転嫁したり、同志間の反目や不信を助長するような信頼関係の希薄さやアン・フェアな体質、また己の「正しさ」を偽装し「プライド」を守るためにウソを重ねることもいとわないといった保身、独善、自己欺瞞、そうした失敗から教訓を学ぼうとしない姿勢が、いかに新左翼(党派)への失望と幻滅を招いたかを捉え返すことでもある。自分に都合の悪い歴史を忘却の彼方に押しやろうとする思想は、右にも左にも共通して存在するからだ。

 世界を揺るがした「1968年」から40年を経た今、スターリン主義の歪みを批判して登場した「新しい左翼」の歴史的な意味、その「光と影」や「解き放たれたまっとうな怒り」、絶望と失意など「革命の蹉跌」を振り返り、あらためて「アンチ・オーソドックス」「ラディカル・レフト」としての新左翼の存在意義(レゾンデートル)を問い直したい。過去を振り返り、現状を見つめ、未来を展望するために。

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