(7面)

新しい時代の始まり−虐げられた民衆の運動

               (自己決定権)をいかに考えるのか

大下敦史(月刊情況編集長)

 

 「赤いプロレタリア」そして読者のみなさん。新年の挨拶を述べさせていただきます。

 

 情況誌は2000年秋から第三期を始め、すでに10年ほど経過してもう少しで100号達成となります。わたしの仕事としてはそこで一段落する。問題は、月刊情況がこれまでの時代の中でどの程度、その役割を果たせてきたのか。その厳しい審判をうけながら若い世代への交代です。赤いプロレタリア(共産主義者協議会)の皆さんはスタートしたばかりで、これからどこまで飛躍するのかについて真剣な論議が行われていると推測します。お互いにその役割は違いますが、情況誌と共通することは、激動期の特有の現象、時代の急速な変化の中で、何が核心なのかを的確につかみ、積極的に対応することなのではないか。

 実際ここ数年、大事件が起き、世界史的な大転換が始まっています。しかもそれはまるで冷戦期とは違う、大きな変化です。その意味で冷戦期の中で育ったわれわれ世代の共産主義者にはイデオロギー的に時代と合わなく、不断に自己点検を強いられ、実に生きにくい感もあります。しかし大原則は虐げられた民衆と共にあるわけで、そこは長い経験を生かして工夫しながら新たな時代に積極的に対応したいです。そんなわけで今年も共にがんばっていきたいです。(以下、紙面上の制約があり、ひとつだけ問題提起をします。)

 ご承知のように21世紀の始まりの年、2001年9・11に大事件がおきました。当初から実に怪しげな事件で、多くのエリートサラリーマンや事務方、現場の労働者が亡くなった。ツインタワービルはわたしも事件の数年前に一度下から見上げたことがあるが、飛行機がぶつかろうと、映像にあるようなあんな崩壊の仕方をするやわな建物(要塞)ではない。9・11事件の真相はいまだに判明してないが、その事件の結果的事態は明確です。アメリカの反テロ戦争の開始、イラク侵略戦争、アフガン戦争へののめりこみ、パキスタン内戦の激化です。これは冷戦崩壊後の、アメリカ帝国主義、そのグローバリズムが帝国的な政治的軍事的な再編を目論む賭けでした。しかし、ブッシュとともに中途で挫折。今ではオバマ政権となりましたが、チェンジは掛け声だけで、アフガン増派とかで困難を極めている。過去にソ連はアフガンで敗北しその後のソ連邦の崩壊につながるのだが、アメリカも間違いなくその道を進んでいる。アメリカのアフガンでの危機は、冷戦期でのベトナム敗戦と同じように考えることはできない。現在のアメリカにはもっと深刻な事態が待っている。それは、パックスアメリカーナという国際的な政治秩序の崩壊に直結している。確かにアメリカに対して国家として戦争で対抗し、勝利できる国はない。しかし、アメリカの大誤算は、虐げられた民衆の知恵やパワー、その強さを見ていなかった。端的に表現すれば、イスラーム・グローバリズムの強さを見抜けなかったところにある。(この点では冷戦期の左翼の側も同じ。今のところこれまでのマルクス主義ではイスラーム現象の内在的論理をつかむことが困難で、簡単にいうと通用する部分が少ない。原点はパレスティナー−虐げられた民衆−を世界の中心にしてみる眼が必要だということですが、これはいわゆる冷戦期左翼の根底にある西洋史観をも突き崩すことになる。)しかも、このイスラーム・グローバル現象はまだ始まったばかり、つまりまだプロローグでしかないという認識が必要なのです。もちろんアメリカのアフガン問題だけでなく、現在のロシア帝国でのチェチェン問題しかり、アメリカの覇権に代わる勢いをもつ中国多民族国家での新彊ウイグル問題しかり。これらは、イスラーム民衆運動の波に飲み込まれざるを得ない弱点をもっている。虐げられた民衆の自己決定権が帝国に抗し、国家をも解体する時代の始まりだといえる。そこで問われる思想的理論的課題は何か。実に冷戦期とは異質な共産主義の中身が問われているのではないか。

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 最後に一言。今年、2010年は08年を越える資本主義の危機が起きる。つまりアメリカ発大恐慌がもっと深刻になる。時代は否が応でもアメリカの没落に伴う世界史的な大激動、大再編にならざるを得ない。日本でも大恐慌という深刻な危機の中で、09年8・30政権交代(自民党支配の崩壊)がおき、それと同時に沖縄に象徴される、虐げられた民衆の運動が政治的な焦点になっている。これが何を意味するのかといえば、日本という国家の解体につながる可能性があるということだ。結論を急ぐならば、そろそろ日本にも新たな革命政党が必要なのではないか。過去と明るく決別する「赤いプロレタリア」に期待することは大です。

 

すでに世界が問題となっている

赤井完爾

 

 21世紀の0年代が終わろうとしているいま、考えてみたいのは、前世紀の終わりの90年代からの20年の移りゆきについてである。この時代の変化の速さはどうしたことだろうか。あまりの速さに変化などないように感じ、十年一日どころか半世紀一日のごとき日々を送っている人々もいるくらいだ。「社会主義」が解体したかと思われる内に、今度はそれを解体させたはずの資本主義も、あやうく解体しそうになっているという具合なのだ。

 こういう変化がどこから来ているかを理解するために、われわれも理性ばかりか感性をも磨かねばならない。かつてどれほど鋭かった理論でも、時代そのものが根本から変化すれば、それは歴史のくずかごに捨てられるべきであって、後生大事に脳漿にため込んで、それを武器に時代を語れば、その人自身が、歴史の屑籠行きとなるだろう。

 ところがこの国の左翼知識人には、牢固たる悪癖があって、思春期に獲得した知識が、時代や世相をみるための眼鏡どころか、眼や心そのものになっている者がいるほどである。その結果、左翼的知識を語ることが、新たな伝統芸に組み込まれる羽目ともなるわけだ。

 たとえば、「宇野経済学」や「黒田哲学」などは、その典型ではないか。これは、言葉と実体との乖離に悩んだこともない明るい青春が最後に見せてくれる地獄図ではあろうが、本人は屈託なく、あちらこちらで芸を披露して回り、賽銭をねだっていればよいのである。こちらには迷惑なのに。

 しかしそれでは困るのだ。何が困るかというと、それは時代そのものを作り出している人類が困るのである。それではどうすればよいのか。

 まずこれまでの概念実体主義を卒業しなければならない。時代は生きて動いているのだ。われわれも古い概念の上に寝そべっているわけにもいかない。いいだもものように、どれほど分厚い本を書いても、概念自体が古ければ、「左翼放蕩老人」になるだけだ。この点で、彼いいだももは、素晴らしい反面教師ではないか。

 われわれに必要なのは、世界や時代を捉えるにたる概念を創造することである。ドゥルーズとガタリがいうように「哲学とは概念の創造である」。この意味で、マルチチュードはいうまでもなく、「プレカリアート」や「コニタリアート」(フランコ・ペナルディ『プレカリアートの詩』参照。)は新概念であって、われわれはこうした概念を用いて、時代を構想しなければならない。

 この意味で小林多喜二『蟹工船』やマルクス『資本論』が、この2、3年にブームとなったのには、それなりの理由があるのである。派遣やフリーターの問題だけではなく、新自由主義という姿であらわれた現代のグローバル資本主義こそが、その原因であろう。ここでわれわれに必要なのは、小林多喜二『蟹工船』やマルクス『資本論』をただ祖述することではない。そんなことは学者どもに任せておけばよいのだ。どんな分野のものであっても、作品はすべてドキュメンタリーと見なすべきだ。作品の分野を枠付けすること自体、近代社会が生み出す概念実体化の陥穽だろう。

 その点で、現代の若者たちが、たとえ漫画を通じてであれ、小林多喜二『蟹工船』に読みふけるのは、素晴らしいことではないか。その一つの結果が、「この日本に貧困などはない」と断言する曾野綾子老女史の登場とは相成ったのだ。保守イデオローグといっても、この程度なのが、まさしくこの国の貧困ではないか。

 ドッス『交差的評伝』には、ドゥルーズやガタリの概念的創造の現場が生々しく書かれているが、彼らにとっては、哲学することと闘うことと生きることが、見事に一つになっている。これこそ文化というものであろうが、この国では死んだ伝統芸能だけが文化と見なされており、死の間際になって勲章を授与されるほどなのである。マルクスのドイツだけではなく、われわれも過去の死重に取り付かれているわけである。

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