基地のない沖縄を!

日米安保粉砕・米軍基地撤去

 

参院選惨敗 混迷の菅政権

「新しい左翼の極を!

 

民主党の惨敗

ねじれ国会の再来

 

 7月11日投票の参院選で、菅政権の民主党が惨敗した。昨年8月の歴史的な戦後初の政権交代に期待を寄せた民意は、わずか10カ月で民主党から離反。自民党が改選第1党になった。ただし小選挙区制に助けられての1人区での圧勝と言える。総得票数では民主党より下回った。自民党から出た「みんなの党」が邁進する一方で「たちあがれ日本」や「日本創新党」等の右翼新党は消滅寸前。社民や日共の既成左翼も長期退潮を脱することができなかった。衆参で多数派が異なる「ねじれ」国会の再来によって、茫然自失の菅政権は混迷・不安定化。政権の死命を制する国会運営が暗礁に乗り上げることは必至であろう。3年前の参院選は安倍自公政権が歴史的な大敗を喫し、昨年の政権交代につながる潮目となった。

 歴史を振り返ると「転換期」とは常に混迷を伴った危機の時代である。激動の幕が開け、第1幕は政権交代劇、そして第2幕は混迷と波乱の政党再編劇か。それにしても政党のドタバタ劇はお粗末すぎる。根底には「冷戦」終焉後の政治のパラダイム・シフト・、グローバル化金融危機をもたらした新自由主義の破綻、といった時代(政治情勢)の変容および社会的テーマの多様化に対応することができない日本の政治(政治家)の劣化がある。4年間で4人の首相(自民の安倍、福田、麻生、民主の鳩山)が交代する事態こそ、米紙ワシントン・ポストが「見るに堪えない」と酷評したように、まさに日本の政党政治の「劣化」を象徴しているのではないか。

 管政権は「閉塞状況の打破」を高唱しながら唐突かつ泥縄的な消費税を巡る発言によって不信と幻滅を招き、発足当初のV字回復といわれた支持率上昇の「消費期限」を自ら縮めた。政治にとって稚拙な印象を持たれることは信頼を失わせ致命的と言える。消費税を巡る菅の場当たり的な発言が鳩山前首相の普天間基地問題を巡る迷走と重なって見えたのは確かだろう。「この混乱は有権者の記憶から消えかけていた普天間飛行場移設問題の迷走を思い出させ、民主党政権の統治能力への懸念をよみがえらせたのだろう」(717付毎日)との指摘は当を得ている。

 確かに選挙では消費税に焦点があたったが、与党民主党と野党第1党の自民党の見解が同じであるような政策を「争点」とは言えない。本来、政党は有権者に対立する「争点」を鮮明に示し、その選択をとうべきだ。にもかかわらず消費税や普天間基地問題など「政権交代」を想定して作られた今の小選挙区制の影響が大きい。メディアも「争点」を明確にできないまま、消費税が「焦点」になったと言える。

 また単独過半数を競う二大政党制の「理念」と連立政権が続いているという「現実」の間には、明らかなギャップがある(714付朝日。吉田徹・北海道大学准教授9。小選挙区制(二大政党制)の民意を反映しない構造的な矛盾を抱えた日本の政治―選挙システムは、不安定さをもたらし政治不信を抱えた日本の政治―選挙システムは、不安定さをもたらした政治不信を高めるという悪循環に陥っている。そもそも違いがあいまいで争点が明確でない政策課題(アジェンダ)やみせかけの政権交代に有権者は、やがて愛想をつかし閉塞感を募らせることになる。政治の劣化に歯止めがかからない現状では民意の信頼―社会保障や税をめぐる前提―を失わせ「政治不信」ばかりが高まるだあろう。沖縄選挙区の投票率が全国最低の5244%だったことは、普天間問題を巡る政治(政府)不信を反映したのかも知れない。

 では今、何が争点なのか。緊要な政治課題とは何か。それは、貧困に苦しみ生活に困窮する人が増大している社会の歪み、不公正、不平等、それを招いた新自由主義や政党政治の劣化をどう正すかに尽きる。「先進国」中最低レベルでお荷物扱いの社会保障、不安定な雇用、そして沖縄に米軍基地を集中させその犠牲によって成り立ってきた日米安保、これをどうするかだ。社会保障、雇用、沖縄基地問題、これを避けて政治の変革はない。

 

 普天間基地の撤去を!

 基地のない沖縄を!

 

 沖縄の米軍普天間基地問題を巡って、鳩山は、迷走し逆送(辺野古移設に回帰)してしまった。交代した菅はと言うと、沖縄に背を向けて迷走しようとしている。

 今回の参院選と沖縄基地問題に関して三木健氏(元琉球新報社社長、ジャーナリスト)はこう述べている。「今回の参院選では、争点から沖縄の基地問題がスポイルされている。奇妙なことである。いったい米軍普天間飛行場の移設問題は、先の日米合意で解決済みとでもいうのか。それとも各党とも『さわらぬ神にたたりなし』と決め込んでいるのか。そもそも鳩山内閣が崩れ、菅内閣に変わった原因の一つが、普天間飛行場移設問題への対応であったはずだ。にもかかわらず、選挙の争点から外すことで選挙戦を有利に展開させようという思惑が、見え見えである」と沖縄で候補者を立てることができなかった民主党の姿を批判。(選挙結果は、比例代表で喜納昌吉県連代表が落選、沖縄の比例代表の政党別得票数は、トップが社民党で次いで民主党、公明党、自民党と続く。)そして、三木氏は論稿の最後に菅政権に対して次のように厳しく注文した。「基地返還の将来展望を示さないまま、このうえ新たな基地を建設しようとすればすれば、いずれ県民の怒りは爆発し、かつて米軍統治下の70年に起きた『コザ反米騒動』が再燃しないという保証はない。日米同盟の要である沖縄の基地が『敵意』に囲まれるのだ。同盟にとって何が得策か、両政府はよくよく考えることだ。」(78付毎日)

 沖縄は、太平洋戦争末期、「本土」防衛の「捨て石」とされ多くの人命が奪われた。1952年の4・28に日本(ヤマト)が占領下から独立した後も、また1972515の「返還」(日本「復帰」=再併合)後も今日にいたるまで日米安保体制の下で「基地の島」として犠牲を強いられてきた。

 なぜ、沖縄に在日米軍基地の4分の3が集中するのか。なぜ、それを沖縄の人々は「沖縄差別」と怒るのか。そのことに私たち(ヤマトンチュ)は真正面から向き合ってきたのか。私たちは、この沖縄から突き付けられた問いに答えることから始めたい。目を背け耳を塞ぎ沈黙する、そうした無関心が沖縄への大きな理不尽、不正を許してきたのではないか、自問が求められている。沖縄を犠牲にした日本(ヤマト)の「平和と繁栄」は公正(フェア)じゃない。

 菅首相は「最小不幸社会」―ロールズの「最小不幸社会」―を唱えるが、「沖縄の不幸は今も最大値」なのだ。普天間基地問題はまったく解決されていない。だがヤマト側に「健忘症の気配がうかがえる」(622付朝日)のもの事実だ。「基地のない平和な島」を望む沖縄の人々の願いが既に裏切られ切り捨てられようとしていることを知りながら、沖縄の基地問題が「ブーム」のように消費され、飽きられ、忘れられていくことがあってはならない。

 戦後日本の政治体制は「憲法」と「安保」を車の両輪として形成されてきた。前者―とりわけ憲法9条と日米軍事同盟―は理念として矛盾する。その矛盾は沖縄への「米軍基地の集中」という形によって隠蔽されてきた。しかも歴代自民党政権は世論の反発を避けるため、米艦船による核持ち込みにからむ「日米密約」の存在をごまかし嘘の説明を繰り返して欺き続けてきた。「国益」のためと称して実は政権維持や官僚の保身のため何十年も人を騙し続けてきたのだ。そういう奴等は、歴史の審判に付されなければならないのである。

 「冷戦」終焉によってその存在理由が揺らいだ日米安保は、96年「アジア太平洋地域の安全保障」として日米同盟を再定義することで当面しのいできた。だが普天間基地に象徴されるように沖縄に基地の重圧を強い、その犠牲の上に日米安保体制が成り立っている限り、それが日米安保を揺るがす最大の「アキレス腱」となりうる。

 何よりも沖縄に対する日本政府の差別的な不公正・不平等への怒りは、種火としてくすぶり続け「沖縄の自己決定権」への希求をおさえがたいものにしている。日米両政府による普天間基地の辺野古移設合意は、「沖縄の怒り」を今やマキシマムにまで押し上げた。強迫観念に等しい時代錯誤の「脅威」を操りマインドコントロールしながら、沖縄に犠牲を強いることによって成り立ってきた日米安保は、「冷戦」時代の遺物でしかないのだ。

 

社会的排除に抗して

公正・平等な権利と連帯を

 

 人々の生活・生存にとって、最も差し迫っている「脅威」とは何か。それは紛れもなく不安定な雇用(半失業―半就労状態)の拡大であり、「先進国」中最低水準の社会保障がもたらしている社会的権利(医療、介護、福祉、年金等の社会保障や教育、労働、居住の権利)からの排除・社会的排除である。つまり、生活を保障するはずのシステム・釈迦保証政策が、かえって人々の生存を脅かし「新たな貧困」を深刻化させている、という現実こそが、私たちにとって差し迫る最大の「脅威」なのである。現行の日本の年金や医療(健康)保険に偏した社会保障システムは、「人間らしく生きる権利」を保障するものになり得ていないばかりか、不安定な非正規就労者や失業者を排除し、公共サービスにアクセスする権利や社会的権利からの排除を隠蔽する機能を果たしているのである。どんなに政策的ニーズが高くても、「自立」を促され救済される客体としてしかみなさない恩恵や施しであっては、当事者の「自己決定権」が阻害されたり権利主体としての意識(権利意識)が損なわれかねない。私たちあh、全ての人に公正・平等な権利としての社会保障の実現、人間らしく生きる権利の保障こそ最も切実な要求であると考える。

 人々を「弱肉強食」の競争に駆り立てる新自由主義者(社会保障解体の「小さな政府」論者)や、戦争国家化を待望し貧困を顧ない右翼が唱える「北朝鮮・中国の脅威」論は、社会の深刻な矛盾、歪んだ現実をごまかし欺くための時代錯誤の虚言でしかないのだ。

 この国の劣化した政治を鍛え直し変えうるのは、大衆運動の力だけである。労働運動や社会運動など大衆運動の力が弱くて、どうして人々の政治意識や権利意識を成熟させられるだろうか。閉塞した政治状況に左翼は責任を免れることができるのか。活動家の大半は、「このままでは左翼は廃れる」という危機感に乏しく、まだ自分たちの置かれた状況の深刻さを理解していないし、「立ち遅れている」ことを真剣に悩んでいる者もごく一部だ。従来の思考一行動様式が情勢の大きな変化に対応し切れなくなり、再構築を迫られていることが骨身に染みていないのである。ドグマや固定観念、独善を捨てて旧来のパラダイムを打破するイニシアティブを創造しない限り左翼に再生はない。

 60年安保、70年安保を巡る闘いの中で「新しい左翼」は、その旗手として光を放った。その輝きが衰えたと言われて久しい。資本主義の歪み、不公正、不平等に対する怒りを組織し、社会を変える「理想と希望」に燃えて大衆行動のうねりを起こす。そうした役割を担うべき左翼は、今やすっかり希少になった。だが、虐げられる人がいなくならない限り、また「公正で平等な権利が保障され連帯に基づいた社会」を希求する人がいる限り、左翼の存在意義は決してなくならない。虐げられし者・プロレタリアの苦しみの中に宿った怒りの火種は、誰にも消せないからだ。怒りが種火のようにくすぶり続けている限り、それは、いつの日か野火のように燃え広がる。だが、「湿った薪には火が点かない」。怒りに火を点け抵抗と連帯を拡大すること、「新しい左翼の極」・共産主義者の役割・使命は、この一点にある。(槙 渡)

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