(3面)

《前田裕晤さんインタビュー》

いま問われる労働運動

の反転攻勢と左派の政治選択

 

―今日はお忙しいところをありがとうございます。前田さんには、以前からお訊ねしたかった、戦後の左派労働運動の歴史的な経過についての総括にかかわる質問があります。ただ、これについてはもう少し時間の余裕をとっってお聞きしようと思いますので、機会を改めることとして、当面する労働運動の課題について絞って、二つの側面から質問をいたします。一つは、格差社会の矛盾が露呈するなかで、久方ぶりに労働運動が反転攻勢に向かう機運が生まれていますが、その際に左翼が考慮すべきポイントは何か?ということです。もう一つはその問題とも関連しますが、昨年の政権交代以降の情勢の流動化の中で、労働運動を基盤とする左派の大衆的な政治指針はいかにあるべきかということです。これは7月参院選挙をはじめとする各級の議会選挙における政治選択を含むものと考えていかす。

 

(1)   戦後労働運動を振り返って

 

前田 私の運動体験から、現実に起こっている運動にコミットしないで、思想的な深化を図るという活動スタイルは取っていません。現実運動に直面して、自分たちがどの様な方向性を持つのかが問われるのが、活動家の立場だと考えている。自分の年齢の問題もありますが、いまさら党派の問題を考える発想はありません。但し、党派の存在を否定するのではなく一定の敬意を払います。現実運動への対処だけで全てが解決する訳ではなく、今後の展望を指向する場合、必要な点もあると思うからです。

 質問のあった2点の問題というのは、なかなか答えにくい。それは私なりの運動体験からの見解は私なりの見方であって、全てを律するとは思わないからです。戦後の流れから見ても、労働運動の社会的な地位は低下していると認めざるをえません。戦後の労働運動を振り返ると、敗戦と飢餓状況の中での出発と言う条件があり、「食えるか、食えないか」から出発する訳ですから、朝ビラを撒き、昼に集会、夕には職場・工場、企業毎の組合となる訳です。戦前との違いは、飢餓状況下では「身分制度」が廃止されたと言う事があります。今の人々には理解されにくいでしょうが、高専・大学卒はエリート層ですから、組織対象ではありえませんでした。教師、新開、放送局、官庁といった所にも組合が結成されると同時に一緒に運動を始めた訳です。労働運動に一定の知識層が加わる事によって理論的に政治・経済分析も可能になる、いわば指導部が確立される事になります。

 当時の階級攻勢上の考え方として、労働者階級には、大衆組織としての労働組合、政党は前衛組織としての労働組合、政党は前衛組織であり、指導、被指導の上下関係にあり、階級社会にあっては労働者階級こそが他の諸階層に対する指導階級と位置付けられていた。労働組合が賃金・労働諸条件を巡る闘いで獲得された諸条件は次の段階で諸階層に拡大されて行くと考えられていた。賃上げ闘争を見ると、大手民間に比べて官公労は低賃金であり、その賃闘は平均賃金の額上げの性格を持つとされていたのです。企業内闘争にあっても成果は諸階層に拡大されるとの位置付けがあったからこそ、多くの活動家は企業内・工場内の職場闘争に専心したのです。徹底して職場闘争は「職場二重権力論」まで生みだします。60年代後半になると、高度成長に見合い、民間ではQC運動や能率給が入り、労働者間にも格差が生まれ、利害関係も生じると、旧来型の職場闘争では通用しなくなって来ます。国鉄、全逓、全電通でも、勝ち取った職場条件が民間に通用しない。私達は「電通労働運動研究会(略称・電通労研)を大阪・東京を中心に全国化を図っていましたが、企業の枠を超え、地域との関係も含めての検討が必要だとして、イギリスのショップ・スチュワード運動が参考にならないかの論議もありました。この時、三多摩・立川で反戦青年委員会運動が始まり、職場から地域の青年労働者の旧来の枠を超えた結合が図られることになります。

 歴史的な位置付けからすると、戦後日本の既成労働運動の枠を超えた、換言すれば弱点を突いた地域の青年労働者の大きな運動になる、政治課題、労働問題も含めれば労働運動そのものの拡大強化につながると考えたのです。この流れに注目し横につなげるには如何にすべきかを考えていたのが、元総評事務局長だった高野実さんでした。高野さんに私淑していた私は、何度となく横浜に呼び出され論議をしましたが、地域反戦を中心に「地域ソビエト」ではないが「地域評議会」として「地域の生み変え運動」にならないか、社会的な課題も含めて運動化するのは可能との判断でしたが、高齢で病身だった高野さんは「前田君、それをやろうとすれば前衛党が必要なんだよ」と言われました。

 各大学での全共闘運動と反戦青年委員会運動が連帯し70年闘争に進むのですが、結果的には街頭闘争は果敢に闘われましたが、職場での闘いは不十分だったと思います。

 

(2)「あってよかった全労協」

これからの課題

 

前田 労働運動に責任を持つとして、党派の枠を超えて「労研運動」を電通の中で展開したのですが、特に関西では各支部・分会、更にオルグとして学生活動家が配置され、大阪だけでも200人をこすメンバーがいたと思います。支部、主要な分会には労研の活動家がいましたし、それは地域では地区反戦のメンバーでもあったのです。大阪総評の青年部にも進出していました。この構造を残し保身も含めて考えたとすれば、国鉄で見られたように、他組合であれば差別解雇があっても自己保身を計る醜悪な労働組合もありますが、労研運動もその棄権はあったかも知れません。70年闘争と労働組合の関係からすると、「新宿騒乱」「防衛庁闘争」「お茶の水カルチェラタン」等々の街頭闘争はあったにしろ、それが社会的に、各職場内でいかに広がり、次は何かを提示出来なかったし、既成秩序の側からは危機として捉えていたものの肝心の労働運動ではむしろ労働戦線の右翼再編運動が起こるのです。全民労協、総評解体策動と、公企体の民営化攻撃も出てくる中で、電通の左翼反対派としての一定の勢力を持ちながら右傾化を阻止する事は出来なかった。総評三顧問、太田・岩井・市川の呼びかけで「労研センター」が結成され、電電公社の民営化に反対して、少数派であっても大阪電通合同労組が生まれ問題提起集団としての運動が始まります。形骸化された労組と職場環境の中では、どこかに一つの旗が立つと、問題意識の拡大と変化がでてくるのが分かりました。少数派組合の連合と、修善寺大会で共同宣言を拒否した国労を中心に据えて「全労協」が結成されます。全労協は労研センターに結集した組合や地域があったからこそ全国組織として成り立ったのです。共産党系は全労連をつくり、三つのナショナルセンターができました。一般には「連合とその他」という扱われ方ですが、地域の組織化とユニオン作り、社会的労働運動という視点からすると、それを担ったのは全労協です。組織人員は公称約30万前後では力は足りない為、賃金闘争を通じてのプライスリーダーとしての決定権はもたないが社会的労働運動の取り組みは問題提起集団として影響力を持つ事になり、それが歴史的役割と言う事も出来ます。全労協の友好組織としての全港湾や全日建は業種別にプライスリーダーの役割を果たしていきます。「むかし陸軍、いま総評」と称された時代は、社会の先進力を担った労働運動への評価と思いますが、これだけ労働運動への評価と思いますが、これだけ労働組合の社会的地位が低下した現状でも、変化の兆しはあります。「年越し派遣村」が示したように、労使関係だけでは解くことはは出来ず、全てが社会問題、政治問題となっています。派遣村の応援隊として裏方として連合・全労連・全労協があったことは、今後の課題的取り組みの前進とみる事になるのかも知れません。沖縄基地撤去問題も同様だと考えます。社会の変化に対応した労働組合のあり方が探られなければならないと思います。

―現在労働運動に求められている課題として感じているのは、ご指摘の社会の多様な変化の中で、左派労働組合としての強い主張、個性をもって、積極的に情勢に切り込むべきだし、そのような条件が生まれているのではないかということですが…。

前田 それは願望を持った左翼的な発想かな。現実からすると、例えば大阪の電通合同や教育合同をみると、結成時には左派の活動家集団の組合が、現場の中での弱者が救いを求めて加入する組合としての存在になり、よるべき組合の姿は、それなりに意味があると考えています。労働者の日常生活での助け合い、横の繋がり、連帯があれば、この格差社会にあっては強い力を発揮する。これを日常的に追求するかぎり全労協の役割は残ります。一部では、国労の採用差別問題が「解決」すれば全労協はなくなるとの声もあるようですが、そんな事は有り得ない。全労協の結成の歴史を振り返れば一目瞭然です。むしろ、社会の変化と労組のあり方を巡って、企業、産別の枠組みを超えて、清水慎三さんが唱えた総合的な「ゼネラル・ユニオン」構想が検討される時代にきていて、その上での大きな再編はあり得るかもしれません。

(2)   問われる政治的共同の在り方

 

前田 自分たちの政党をどうするのかには、まだ答えられない。唯、昨年の自・公政権が倒れ、登場した三党連立政権はいかなる性格であったのか、その結論がまだ出ていない。鳩山政権を生み出したのは、国民の投票による「参加意識」が有ったのではないかの分析もある。鳩山は「革命」と述べ、「大衆一揆」「平成維新」等々の表現が飛び交いましたが、「参加意識」を大衆にもたらしたとすれば、日米合意と辺野古移設では社民党の連立離脱を呼び、鳩山・小沢の退陣と菅内閣の登場は、郵政改革法案を巡って、亀井の大臣辞任に至り、消費税問題での参院選では大敗をもたらした。では「参加意識」とはなんであったのか、これは私達の取り組みの在り方も含めて問われている課題ではないかと思います。

―「闘う第三極創りをめざす近畿会議」は、7月参院選挙を念頭において、今年2月の「決意表明と声明」でこう述べています。「この間、大阪・兵庫を初め近畿各地で積み上げてきた、『反戦・反核・反差別・反貧困・格差是正』の大衆行動を基盤とした共同闘争により、昨夏の総選挙において辻本清美議員に加え服部良一議員を誕生させた。」「その実績に立って、原和美新社会党副委員長を社会民主党比例区候補として擁立されるよう、社民・新社会党両党に要請し働きかけてきた。」労働運動をはじめとする大衆運動を基礎とした政治的共同のあり方についてヒントをいただきたいので、この経験のご紹介をお願いいたします。

前田 「闘う第三極創りをめざす近畿会議」では社民党から辻本清美、服部良一を衆議院議員に送り出し、又、参院選では比例区に原和美、大阪選挙区に大川昭子を推薦するも敗北した。総括と今後の運動の取り組みについて検討の最中です。

 95年PKO派兵反対運動の中で、分裂した社会党の田・国広・旭堂小南陵を中心に「平和・市民」で参院選を闘った経緯があります。東京選挙区で田さんしか当選しませんでした。政策的な大項目のもとに共同候補擁立、統一の運動を取り組んだのですがそれに同意しないグループは外れていってしまう。私たちの頭の中には、フランスの人民戦線のようなモデルしかなく、現状には通用しなかった。むしろ一定の約束事のような形での項目を設定したら、後はそれぞれのグループの政治的主体性を承認するという共同行動だったら運動として成功したかも分からない。これからの政治運動を考えるとすれば、共同行動運動として第三極をつくるしかない。近畿の第三極運動は、辻本清美が無所属で参院選大阪地方区に立候補し、それに取組んだ大阪全労協、全港湾大阪支部、全日建連帯労組、市民団体から始まり、社民党、新社会党にも声を掛けて作られた経緯がある。全国的な規模で政治的な運動を考えるなら、それなりの背景が必要だし、今の選挙制度を前提にするなら、既存の政党もある程度活用せざるをえないということえはないでしょうか。

―労働運動ではゼネラル・ユニオン、政治闘争では共同、統一のあり方についての提起を貴重なものと受けとめました。左派労働運動の歴史的経験についての節目ごとの総括と合わせて、考えを深めたいと思います。ありがとうございました。(2010年7月)

(畑中 文治)

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