沖縄県知事選勝利へ−その歴史的意義と「尖閣列島騒動」

相模 潤

 

 沖縄県知事選の投票日が間近に迫った。伊波候補は告示日の第一声で、普天間基地撤去と県内移設を絶対に認めない、「県民と日米両国との戦い」と訴え、「辺野古新基地建設を葬り去り終止符を打とう」と宣言した。

 「沖縄の意志」を拒絶し足蹴にして、あくまで沖縄に基地を押しつけ、軍事的隷属下に置くことを宣言した日米共同声明。それに対して歴史の深みから立ち上がった怒りと「沖縄のことは沖縄で決める」という形を通して一つの現実的な力へと結実しようとしている。知事選勝利は日米共同声明撤回・基地撤去・新基地阻止の途を大きく拓くが、それは日米両国の深く厳しい対峙と共にであり、闘いの加速は日米安保を根底から揺るがしていくであろう。それと同時に、日米安保の基底としての沖縄軍事植民地支配からの脱却=自己決定権と自立への流れを加速していくに違いない。

 「今の政治状況の中に、日本という制度空間の権力システムの中に、沖縄から二重権力状態を無の状態から創り上げていった…琉球政府の経験や記憶を現在的な文脈で再構成しながら、新たな自己決定権の樹立に向かうべき」という仲里効氏の提起は、今回の県知事選で伊波候補を支持する人達の中でしっかりと内面化されているに違いない。

 「新しい沖縄へ」という言葉の中に、日米による軍事植民地を拒絶し、それから脱して自立する沖縄、日米安保や帝国的国民国家の枠組みから脱した平和な自立した沖縄、そして東アジアの中に平和と協同関係の新しい風と流れを創り出していく沖縄、そういう響きを感じ取っているのは思い込みにすぎるのだろうか。

 「新しい沖縄」は当然にもヤマトへの問いかけでもあり、その変化・変革を迫るものでもある。沖縄の軍事植民地支配を基底とする日米安保体制、そしてそれを内在的支柱としてビルトインした帝国的国民国家としての日本、日米安保−帝国的国民国家−多国籍資本を軸としたアジアへの姿勢、こういうものとしてのヤマトの根本的変革こそが問われているのだ。

 

「尖閣列島騒動」を跳ね返そう

 

 まさにそのような時に尖閣列島騒動である。この「騒動」は日本政府によって意図的に引き起こされた。衝突事件を「尖閣列島騒動」へと仕向けたのは前原−菅政権であり、それを後押ししたアメリカである。それは幾重にも反動的である。かくして政権交代期時に台頭した日米同盟見直し・独自の中国接近をはらんだ東アジア共同体という方向性は完全に費え去り、中国脅威論をテコにした安保抑止論=日米同盟強化、そして米帝主導のTPP参加という前原−菅の、「日米安保−帝国的国民国家−多国籍資本」守旧路線が全面化している。

 とくにこの過程での「尖閣=固有の領土論」の大合唱〜安保抑止論〜西南防衛=先島への自衛隊派兵配備、沖縄への自衛隊2万名派兵配備画策という事態は、我々を再び三度、近−現代の日本国家に向き合いその根本的批判・変革へと向かうことを促迫している。

 その「固有の領土」論は、第一にそれに先行する琉球処分=武力をもってする琉球の直接併合・「日本の西南の軍事的衝立」とする国内植民地化を、固有の領土として完全に居直っている。第二に尖閣諸島は日清戦争のドサクサの中でこっそりと掠め取ったものであり、その後の台湾併合から南方展開へと至る植民地主義の拡大の中にあったことを隠蔽している。

 第三にそもそも明治政府の中には早くから「征韓論」と拮抗させる形で「征台論」があり、琉球処分から台湾併合までは一連の流れにある行動であり、尖閣列島の掠め取りもその一環であった。

 第四に「無主地先占」の法理をもちだすことによって、「領土」や「私有」の観念を持たない先住民族の土地や自然や文化や生活を略奪・破壊しつづけてきたことを正当化している。

 そもそも尖閣諸島とその海域は「無主地」であったわけではない。それは明時代から、どこに属するものとしてではなく、琉球と中国・台湾との航行の標識として利用され、また良好な漁場として、沖縄・石垣島の漁民をはじめ、台湾、中国福建省の漁民達の漁場として、生活の場となってきた。仲里効氏は、琉球ではずっと島々は「領土」ではなく「場」(人々が生活し交流し合う場)とみなされてきた、と指摘している。

 こうした琉・台・中の漁民達の生活と交流の「場」として続いてきたものを、現代の国家は海底油田資源の発見とともに、資源支配のために国家主権のせめぎ合いと角遂の場=「領土問題」へと転化してきた。そのために自らが積み重ねてきた併合と植民地主義をも居直り、国家意識と排外主義を煽り立て、戦争体制と軍事力強化へ駆り立てる。それはまたしても沖縄をその前線に駆り立て軍事的重圧を押しつけようとするものだ。先島への自衛隊派兵配備…、いったいこの国はあの沖縄戦をどのように反省し、自らの指針に生かさねばと、考えているのか。それは我々に問われている。07年の沖縄戦の歴史歪曲を許さない県民大会と今年の4・25県民大会は決して別のものではない。

 尖閣問題解決はこの近−現代日本の帝国的国民国家からの脱却・変革という線上で立てられるべきだ。「脱国家主権」に立って「領有権」は棚上げにし、共同管理・共同使用(まずもって沖・台・中三地域の漁民を主体とする)とする等、国家主権のせめぎ合いと角遂の場としての「領土問題」から、民衆の交流と協同の「場」へと替えて行くこと。それはまた自己決定権の考えと同じ軌道にある。

 

 「新福祉国家戦略」批判の観点

旭 凡太郎

 

@ 近年登場の「新福祉国家論」を掲げる日本共産党内外の潮流の意見は、企業別組合・年功賃金・終身雇用といった日本型労使関係と、それの崩壊の結果として顕在化した低レベルな日本の社会保障・福祉への批判である。それとヨーロッパ型産業別組合・同一労働同一賃金、福祉の評価という事である。「日本は…戦後のヨーロッパにおいて実現した『第二段階福祉国家』が、企業社会的統合のもとで実現しなかった…『第二段階福祉国家』の諸課題を…新自由主義的再編に反対しつつ達成するという…二重の課題(渡辺治『日本社会の対抗と抗争』)。「同一労働同一賃金…と福祉国家運動は一体(後藤道夫 同)」と。

 労働運動後退・派遣拡大のもとで、企業別組合主因説、同一労働同一賃金による再建説にひかれる人もいた。他方「まず職を要求する」としていた野宿労働者の運動からも、派遣村以降生活保護申請は拡大し、「自由と生存の家」等住宅要求・実現運動が始まっている。

 

「福祉国家」とは

 

A しかし現実は「福祉国家」の施策それ自身が、支配構造とそれの政治的社会的再生産を巡るせめぎあいである。労働過程、生活・地域を巡る攻防と、共同戦線と、国家権力の分解・再編過程でもある。

 この「福祉国家」については障害者解放運動が1980年前後の養護学校義務化反対、分離収容反対以降のなかで「福祉国家とは…社会対立の激化を予防するための、労働・教育・治療・福祉にわたる制度を、労働力対策と所得再分配のメカニズムとして、経済の基本構造に組み込んだ国家体制」「国際経済競争のための労働力育成を基準として人々を分ける」と提起している(『地域と障害』)。

 すなわちその障害者の困難・要求への対応という形をとりつつの労働過程の剰余価値増大・生産性向上・競争・差別化体制を防衛し、分離・組み入れるための障害者対策としての「福祉」、という事をめぐるせめぎあいである。それは福祉一般でもある。(戦争を含む国家・社会秩序とも絡むのだが)

 勿論「福祉国家」という土俵はあり、その上で「共に学校へ」「地域・交通改革」「労働参加」そして地域共闘、とそれによる地方自治体末端の分解ということになる。

 又、「福祉」と対応して、帝国主義と民族・植民地問題、その内国化としての琉球処分と同化策の破産、アイヌ・先住民とその運動がある。

B     又、都市と農村の分離、工業への農業の従属という支配構造と農村対策−食管法から所得保障がある。

C スウェーデンの福祉は、同一労働同一賃金、高い組合組織率(82%)、高い女性の就業率(80%)、2、大きな政府。○GDP中の租税負担率(含社会保険料)51.9%、日本28.8% ○社会支出(社会保障)対GDP31.9%、日本18.4% ○高い公務員比率:就業者の1/3 ○消費税は25%(食料は12%) ○年金・医療は基本的に税・公的負担。低・無年金者には基礎額補足手当+住宅手当等 ○年金・医療に片よらないで(年金・医療は社会支出の55%。日本では82.2%)、教育(大学まで学費無料)、両親への育児休暇(15カ月)+子供手当、全世代への住宅手当(資産調査付)…等全世代対策で参考にできる。

D それはスウェーデンの1970年代の急進的な、生産と労働への自己決定を要求する労働組合運動の「挫折」の対比でも考えられなくてはならない。1970年代「組合による経済、産業民主主義上の過激な要求は、経営側の強い反撃を招いた」「産業民主主義とは、雇用労働者が、何をどのように生産するかに関して有する影響力」。(『先進諸国の労使関係』オレ・ハマシュトロム)即ち「賃金労働者基金」:利潤の一部を組合の基金とし会社株の購入にあて最終的には組合が多数になる…。

 「共同決定法」:いかなる決定も経営側は労働組合との協議の義務付け…以上には機能しなかったとされる。

E 自らを政治権力として打ちたててゆく過程は、対国家権力との攻防関係のみならず、自らの内部に、全部門に渡り、賃金・労働条件から労働過程や生産の内的編成をふくめた自己決定権・力、それの生活・労働力再生産・各階層・地域との相互関係、そして農民・農村との連帯、更に帝国主義と民族・植民地問題、その国内化問題ないしは先住民問題、さらには移住労働者問題への連帯、解決関係、等を構造化する事でもある。

F     新福祉国家戦略の一部では「1968年のフランスの5月、69年イタリアの暑い夏…」「フォーディズムの展開はトップダウン型管理を強め」「これに対する反乱が『1968年』だったといえる(木下武男『日本社会の対抗と抗争』)」ともされそれは評価できる。

 しかし例えば、この「労働者による支配要求」「フォーディズムに対する反乱」といった場合、日本での戦争直後の「生産管理闘争」を起源とした、三鉱連・三井三池、国労運動…の評価に連なる。

 

戦後争議、68年、今後

 

 終戦直後の読売争議、京成電鉄、鋼管鶴見等は実際に「生産」し、又「従業員の採用、異動、解雇等については組合の同意を必要等の節約化」「企業内が二重権力状況になっている」(佐藤浩一『戦後日本の労働運動』とある。

G     激動期のこうした闘いは資本の再建、発展過程で孤立化・各個撃破されながらも幾つかの拠点で持続・発展した(三池、国労、中小)。今でも官公・中小・地域の一部では持続がある。ユニオン、非正規・移住労働者等原初的争議等と、現場協議制から解雇撤回の国労や、広島電鉄等とが並行している。

 では戦後、運動はなぜ産業別組合なり同一労働同一賃金型構造へと発展できなかったのか。(略)

 労働運動の力だけでそれを実現するとすれば、「同一労働同一賃金」要求に止まらない、圧倒的な労働運動、諸社会運動、政治闘争の中においてでは、という想定がある。単に資本に対する労働者の強い力のみならず、非正規・正規労働者等全階層の登場下、統治主体としての統一、「公正」という事の必要、困難と能力を分有する必要の自覚でもある。(資本が応じる可能性がない訳ではない)

H こうした意味では同一労働同意一賃金、生産過程への労働者の支配の要求とその全産業化、非正規労働からする均等待遇要求、争議とは相互関係・相乗作用的関係をもっているものと考えられる。

(関西生コンで、地域的ながら産業別労働組合・同一労働同一賃金、対大手への価格決定力、投資規制、解雇労働者の同業者による再雇用協定…といった総体を一体としているという独自性がある)

 

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