共産主義運動の連合・統一と共産主義者協議会の結成

畑中文治(共産同首都圏委員会)

 

   レーニンの組織観を現在に生かす

  私たちは、近年「共産主義者の連合・統一」を主張してきたが、これは一方では『共産主義運動年誌』の活動とそこでの討論を受け止めてきたことの結果であり、そして他方、『テーゼ2004』の末尾で、「革命的政治結社の連合と統一戦線戦術(党派闘争)」(『風をよむ』誌第6号P18)の項目を宛てて述べていることに、主体的な根拠をもつものである。この問題については、昨年12月、共産主義者協議会(準備会)の発足に先立って、「共産主義者同盟(統一委員会)」政治集会への連帯のあいさつでは、次のように述べている。「レーニンの事績を引き継ぐ点では私たちも皆さんも共通しています。そのうえで私たちは、@自らの組織・活動の実態に踏まえれば、規模、構造において「イスクラ」時代以前の段階にあること、AK1第3回大会・労働者統一戦線戦術、K1第4回大会での演説(レーニン)のさらに延長上に今日の共産主義運動の政治組織展望を求めようとしていることが、皆さんとの意見の相違の理由であると考えています。」協議会の出発に当たってもう少しこの意味を敷衍して整理しておきたい。(第3インター=コミンテルンをK1と略記することがある。)

 私たちの『テーゼ』は次のように述べた。「革命党建設にいたる一時代にあって、避けられない連合と闘争のなかでの統一戦線戦術の行使にあたっては、共産主義運動の社会的基礎の開拓に最新の注意を払わなければならない。」ここには、以下の3つほどの意味が折りたたまれている。@革命党建設に至るためには、無数の革命的結社の連合と闘争の過渡期の一時代が必要なこと、Aこの連合と闘争は、政治権力の獲得を目指す闘争は、政治権力の獲得を目指す統一戦線戦術のプロセスを伴うこと、Bとりわけ長期停滞の続くわが国共産主義運動は、統一戦線戦術を通じてその社会的基礎の拡大に努めなければならないこと。したがって「連合党」、「ネットワーク型組織論」、「複数前衛主義」をよしとする理解ではない。この点は、協議会においても共通の認識になっていると私たちは理解している。

 こうした私たちの党建設についての考え方の背景には、89年〜91年の東欧・ソ連「国家社会主義」の崩壊が、否応なく突きつけた「第3インター・マルクス主義の失効」という認識がある。これは「レーニンやローザ・ルクセンブルグが第二インターナショナルにたいして遂行したような、世界プロレタリア革命の理論と方法の総括、マルクス主義のマルクス主義的な歴史的、批判的総括が第三インターナショナルにたいして遂行されていない―という動かすことのできない事実」(『マルクス主義革命論史第3巻 第三インターとヨーロッパ革命』/紀伊国屋書店/「編者まえがき」)を承認し、さらに実践においてこれへの回答をしなければならないという意味である。

 レーニンの『左翼小児病』(『左翼共産主義、共産主義の小児病』)は、1920年の第3インター第2回大会にむけて提出された。そこには、ロシアにおけるボルシェヴィキの党建設の諸段階についての記述がある。これはヨーロッパ革命を実行する党をいか作るかという要求に応えるものであった。「ボリシェヴィズムは、政治思想の一潮流として、また政党として、1903年このかた存在している」(国民文庫P10)とある。これがロシア社会民主労働党の第2回大会の時期を指していることは明らかであろう。だが、もう少し詳しく見ると「ロシアの革命的プロレタリアートの大衆党がその基礎を築いた1900―1903年」(P23)という記述に気づく。これは『イスクラ』が、第2回大会を精力的に準備してきた時期に相当する。1900年『イスクラ』第1号の『我々の運動の緊要な諸任務』でレーニンは次のように述べた。「ロシアでは、社会主義と労働運動とを結合する必要があることは、理論的にはもうずっと以前から宣言されていた。だが、実践的には、この結合はいまようやくつくり上げられているところである。」1898年ロシア社会民主党創立大会を含む、イスクラ以前、19世紀後半の、無数の政治サークルによるマルクス主義的革命運動の経験があったことが前提されているのである。

 

  第3インターと統一戦線戦術

 

 私たちは、現在の共産主義運動が、まさに後のボルシェヴィキが通過しなければならなかった党建設の一つの時期、段階に相当する過程にあり、それは、第3インターの第3・4回大会で検討された問題が、未だに実践的な成案を得るにいたっていないことによると考えている。既に紹介した『第三インターとヨーロッパ革命』には故中村丈夫さんによる『レーニンと第3インタナショナル』というタイトルの重要な解説がつけられている。これは全編、評議会革命・党建設・統一戦線戦術を初期コミンテルンの経験に即して論じたものである。その結論を、少し長くなるが紹介しておこう。

 「革命論の最後の言葉は、組織論である。性急とも見えた第三インターナショナルの結成から、加入条件二一カ条をめぐる論争、執行委員会と各国支部との数々の摩擦をへて、問題の党構造、党活動の方法・内容のテーゼ、特に合法・非合法、公然・非公然の区別と統一戦線―党―労働者権力の重層的構造等々にいたる総括と討論が尽くされたならば、世界党としての第三インターナショナルは文字通り世界プロレタリアートのヘゲモニーたりえたであろうし、こんにちにいたるもなお未完のヨーロッパ革命のアポリアからの出路はみいだされたであろう。」(P47)

 ここで検討されているのは直接には、第3回大会(1921年)で採択された『共産党の構成、その活動の方法と内容にかんするテーゼ』についての、翌22年の第4回大会でのレーニンの自己批判的な総括である。「ロシア革命の五カ年と世界革命の見通し」についての短い報告のなかでレーニンは次のように述べた。「我々はこの決議によって大きな誤りを犯してしまった、すなわちわれとわが手で、今後の前進への道をふさいでしまった。」「外国人は、革命的活動の組織、構造、方法、内容を現実に理解するために、特殊な意味で学ばなければならない。」この指摘が、具体的には何を意味するのか、これが私たち自身が答えなければならない今日の共産主義運動の実践的課題である。「組織テーゼ」が検討の対象となっていることは明らかだが、それに止まらず、18年から23年にいたるドイツ革命をはじめとするヨーロッパ革命の激闘と敗北を、「統一戦線」を視点として総括することが求められている。関連して以下3点ほど。@グラムシの「陣地戦と機動戦」論(『現代の君主』)青木文庫P202)。「私にはイリイッチが17年に勝利のうちに東方に適用された機動戦から、西方でただ一つ可能な形態であった陣地戦に変える必要があることを理解したように思われる。・・・これが『統一戦線』の定式が意味したことであろうと思われる。」A『十月革命の道と我々の道』(『全世界を獲得するためにT』P45)。いうまでもなく第1次ブントの理論的基礎を形成した論文だが、そこで次のようなテーマが扱われている。「あらゆる革命運動が統一戦線の歴史であるのと同様に、十月革命の真実の歴史は、今日、きわめて豊富な教訓を含んだ、真にレーニン主義的な統一戦線の歴史である。」B「『紙碑 中村丈夫―共産党から新左翼への70年』刊行に寄せて」(『かけはし』2050号/酒井与七)。酒井さんは『マルクス主義革命論争史』第2巻の編著者である。「コミンテルン初期の立場が正当に評価され、コミンテルン第三回大会の統一戦線戦術を労働者統一戦線→労働者評議会(ソビエト)革命の立場としてとらえ、こうしてプロレタリア革命を主張する立場が明白に一貫していたのである。」

 

 『プラウダ』『無産者新聞』の事例に学ぶ

 

 最後に「共同政治新聞」という性格について触れておこう。この点については、流さんが後日論じてくださるかもしれないのでごく簡単に。ボルシェヴィキの非合法下の時代では『プラウダ』が、日本の戦前共産主義運動の経験で言えば『無産者新聞』が参考例となるかもしれない。この時期の『プラウダ』は1912年に創刊され14年に戦時弾圧によって閉鎖されるまで、「党の合法機関紙で、労働者階級の生活で大きな役割を果たした」とかつての公認党史(『ソ連邦共産党史1』72年刊/国民文庫P234)でも記されている。発行部数は約4万、ロシア944地点に予約者がいたという。これに先立つ12年1月プラハ協議会が行われ、事実上のボルシェヴィキ単独党建設がはじまる。この合法日刊労働者新聞と、議会活動によって、労働者への影響を強め、ストライキ闘争が拡大する時代であり、ボルシェヴィキの労働者は「プラウダ派」と呼ばれた。

 他方『無産者新聞』は22年に結成されたものの程なく解党してしまった日本共産党の再建活動に合わせて、「コミュニスト・グループ」の合法機関紙として普通選挙法と治安維持法が成立した25年に創刊された。以後29年第238号付録(239号で廃刊するまで、激しい弾圧のもとで、普通選挙運動、労働争議、工代会運動、小作争議などの組織者となった、戦前最大の大衆的政治新聞である。27年には日刊化を目標としたが、これは果たせず、おおよそ月に4〜6回のペースで発行された。第1回普通選挙を控えた28年2月には号外その他を含めて2日に1回の割合で発行された。発行部数は、最高時4万部前後、最低1万4千、平均2万数千部程度とされる。配布網となった支局数は、旧植民地をも含めて127という数字がある。29年9月から、後継紙「第二無産者新聞」が発行され、完全非合法の時期も含めて32年に廃刊されるまで96号が発行された。(『無産者新聞』の歴史については二村一夫著作集を参照されたい。)

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/mushinkaidai1.html

 『プラウダ』も『無産者新聞』も非合法下における共産主義運動の合法的政治新聞という性格をもっている。そのことによって、必ずしも意図したものではなからおうが、一党一派の宣伝・煽動に止まらない幅の広さがもたらされ、これが労働者への影響力の拡大に寄与したことであろうことが推測される。『プラウダ』にゴーリキーが頻繁に書いたというし、ボグダーノフを含むフペリョード派にも紙面が提供された。(結局ボグダーノフとは不和に終わったようだが。)何よりも労働者の通信を多数掲載するという編集方針が、新聞の健全な大衆的性格を支えたのではないか。

 『無産者新聞』はその「発行趣意書」で次のように述べた。「この新聞は無産階級陣営内の一党一派の所有物ではなく、全無産階級のものであり、日本の無産階級大衆の階級的要求を表現し、そのために戦うことを期します。」だが後期には「日本共産党の旗の下に」という見出しが掲げられるなど共産党の機関紙としての性格が強くなっていったという。国際共産主義運動史では、「ボルシェヴィキ化」をっはじめとするスターリン主義による制圧が進行していた時代である。どの程度まで、非合法、非公然の活動についての考え方が練られていたかはわからない。とはいえ、天皇制帝国主義と闘う無産大衆の運動の成長発展が『無産者新聞』の時代の活力のようなものを象徴していたであろう。

 私たちはこうした共産主義運動の歴史的教訓、課題、先例に学びこの社会におけるその発展を促すために協議会に結集した。現在も進行中の「金融恐慌」を資本家階級は「100年に一度の危機」などという。ならば私たちは国際階級闘争のこの100年を振り返り世代から世代に闘いを引き継ごう。社会的労働運動と国際連帯を進め、共に闘おう!

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