生存権を取り戻すために

新しい社会運動―労働運動の波を!  

     〈上〉  槙 渡

 

新左翼再生の戦略とイニシアティブとは

 

 日本の新左翼運動の立ち遅れた現状(不振、低迷)の根底には、運動―組織を立て直す(再構築する)自己変革意識(換言すれば危機意識)の欠如と政治的イニシアティブ(創意)の喪失がある。

 70年代安保闘争敗北以降の新左翼党派間の深刻な内部テロル(内ゲバ)やセクト主義への傾斜が引き金になったことは確かだが、それだけで今日に至る退潮を招いたわけではない。

 「冷戦」終焉後、世界を覆ったグローバリズムに対抗して「新機軸」を立て、新しい社会運動―労働運動にシフトする、そういうイニシアティブが求められながらも旧来の思考―行動様式を踏襲し、権威主義的な体質を改められないまま、「古い殻」を破れず、自らの運動戦略の再構築(転換・変革)を怠ったことこそ総括しなければならない。そして、今こそ自己の「立ち遅れた現状」を率直に認め、左翼運動のベースを再建するために力を合わせ、連携・共闘して戦略的な陣地戦、反グローバリズム運動のラディカルなイニシアティブを創造することを通して、新左翼―共産主義運動を再生することである。それ以外に我々の未来はないからだ。

 時代が大きく転換し変化した情勢の下で、かつてのモデル(ボルシェヴィキモデル)が通用しうると考えるのは非現実的・教条主義的で「対応不全」に陥ると言わざるを得ない。過去の成功モデルへの情緒的なノスタルジーを払拭して、新しい変革のビジョンを構想すること。それができないところに日本の左翼のダメさがある。世界中で反グローバリズム運動がいわば「周回遅れ」の現状にあるということに危機感すら抱かない。相変わらず一党一派のセクト主義的な駆け引きや狭い利害にうつつを抜かしている「ヘビーな左翼」に二極分化している現状を打破し「新しい左翼の極」を創らない限り、長期の低迷から脱しえないであろう。

 とりわけ、「革命か改良か」、「党がソヴィエト(大衆運動)か」という誤った二者択一を迫る古典的なシェーマから脱却できないと変化の激しい情勢に臨機応変に対応する柔軟さを失い、独創的で型にはまらない新しいイニシアティブを創造することはできないのである。これまで我々新左翼は往々にして本来相反する問題ではない―革命と改良、機動戦と陣地戦など―両義的あるいは多義的な問題を単純化して二者択一を迫る愚を繰り返してきた。その結果、視野狭窄になり政治闘争や大衆運動におけるイニシアティブを喪失してきたと言える。

 今日、反グローバリズム運動のうねりを起こすための政治的イニシアティブを破棄できないような左翼(政治党派)に存在価値はない。従来の正規労働者の既得権益を代表してきた労働組合運動は、非正規下層労働者を新たな担い手とする「社会運動ユニオニズム」へ、また従来、個別課題領域ごとにバラバラであった社会運動は、貧困・社会的排除に抗し、生存権(社会権)を取り戻すために闘う「新しい社会運動」への転換が、「時代の要請」として迫られている。まさに、そのためにこそ「新しいイニシアティブ」が問われているのだ。

 イニシアティブを喪失した左翼にできるのは、羅針盤を失った船のように、ただ従来通りのやり方でまっすぐに進むことだけだ。情勢のトレンド(流れ)を読み対応できなければ、臨機応変に舵を切れず、やがて荒波にのまれ座礁するしかない。たとえ、それがどんなに大きな船であったとしても。

 経済も社会も壊れている。政治は劣化し機能不全を呈している。職を失い、住む家を失い、どん底の困窮生活を強いられている人が大勢いる。もう失うものはなにもない。「もうたくさんだ!」と思った瞬間から、絶望が希望への飢えに変わる。心の奥底に怒りが宿り、くすぶり続けてきた火種が火柱となって赤々と燃え上がる。いくつものさえぎる壁を乗り越えてプロレタリアの「怒り・抵抗・連帯」が拡がる。漆黒に覆われた街頭が紅蓮の炎に照らし出され、新しい時代の扉が開かれる。

 

問われる社会運動―労働運動の新機軸

 

 情勢は一変し時代は大きく転換しつつある。人々は新しい時代の扉を開く変革を求めている。だが日本の左翼は、20世紀のパラダイムから脱却できず、この「時代の要請」に応えるための新しいイニシアティブを創り出せないまま未だに立ち遅れている。旧来の思考―行動様式を踏襲した情勢分析は、ステレオタイプな古臭い切り口の域を出ていないからだ。

 権威や常識、既成概念にとらわれない反骨精神を宿していたマルクスやレーニンは、自らの論理がいつの時代にも通用する原理だと主張するような「おごり」はなかった。時代が変われば、求められる思想や戦略も変わる。問題は、その変化を察知して時流に乗り大勢にこびて変節者に堕するのではなく、時代の変化や情勢の根底にある人々の怒り、苦しみ、そして政治意識(権利意識)の現状と行動の可能性およびその限界を洞察し見極める思索に努めることであろう。

 人は何に苦しみ、何に怒っているのか。人は何故、虐げられなければならないのか。生きるための権利(生存権)や尊厳のある生活が保障されず脅かされたり侵害・剥奪されたりすのは何故か。どうしたら社会のいびつさ・不公正・不平等を止揚し変革することができるのか。搾取や抑圧、貧困に苦しむ人がいない社会、誰も虐げられたりしない公正(フェアネス)・平等で連帯に基づいた社会は可能か、それはどうしたら実現できるのか。これが、社会運動―労働運動のラディカル(根底的)なテーマだ。

 我々は、「経済」の語源である「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」という原点に今こそ立ち戻るべきなのではないか。逆境が原点への回帰を生み、そこからまた新たな一歩と再創造が始まる。政治にも経済にも共通する原理だ。ただし人間の意識の変革と社会(政治体制)の転換が同時に進むとは限らない。むしろ、それはまれで、「互いに後になり先になりながらジグザグで進む」(西川恵)ことが多い。我々は、戦略的な展望を見い出すまでの最善のプロセスを模索し、イニシアティブを創造し、次世代を育てていく。それが我々に課せられた使命だ。

 人は本来、人と人との支えあいやつながりによって生きている。人はひとりでは生きられないからだ。だが資本主義は、人々を「弱肉強食」のジャングルのルールに基づいた貪欲な競争に駆り立てている。競争の原理は、分断である。つまり人々を分断して対立させ競争させる。それが階級社会のいびつさ・不公正さを生み出し、人々の目と耳と声を塞いでいる。社会的な支えがあれば死なずに済んだ人が一体どれだけいただろうか。

 昨年来の「派遣切り」などにより職を失い住居を失い路上(野宿)生活を余儀なくされた非正規の労働者が多数生み出された事態は、明らかに労働市場の規制緩和を推進してきた新自由主義的な社会政策や労働政策による「失政」が招いた「人災」である。労働者に「自己責任」をおしつけ犠牲を転嫁してきた政治家や資本家は自らの「責任」を自覚すべきだ。

 働いても生活に困窮する人(ワーキング・プア)が、この富める国に大勢いる。人々の「生きるための権利」(生存権)が軽んじられ脅かされているというこの国の「いびつさ」こそ批判されなければならない。多くの非正規労働者が短期間にいとも簡単に解雇され路上に放り出された。製造業の派遣を解禁するなど規制緩和によって企業は合法的に低賃金で「使い捨て」できる「雇用の調整弁」として非正規(派遣・契約・請負など)の労働者を使ってもうけた。資本家にとって労働者はもはやモノ(商品)と同じ使い捨て可能な削減すべきコストでしかないと扱っているのだ。その結果、失業・貧困が増え、社会的権利から排除されて生存権を脅かされている「持たざる者」が膨大に生み出されたのである。鎌田慧氏は「これほどの大量解雇があっても社会問題にならないのは、大企業の労働組合が『対岸の火事』と眺めるだけだからだ」(512付東京新聞)と指摘する。

 

社会的排除と闘い生存権を取り戻せ

 

 昨年末から注目を集めた「派遣切り」に象徴される非正規労働者の解雇・失業問題は、職を失えば住む家も失ってしまうこの国の下層労働者の現状と、人間らしく生きるための権利―居住、労働、教育、医療、介護等の社会権(生存権)―が、いかに保障されず脅かされているか、社会保障や福祉政策の歪みを浮き彫りにしたと言える。

 誤解を恐れずに言うと、偽装請負や日雇派遣が違法か合法かが問題なのではない。どのような雇用形態であれ、全ての人に平等に保障されるべき権利が侵害され剥奪されていること、社会的な権利から排除されることによって、生存権自体が脅かされていることが問題なのだ。労働市場において「雇用の調整弁」として周縁(マージナル)化され、社会保障や雇用・医療・年金等の保険、公的サービスからしめ出されることによって、貧困に苦しみ「社会的排除」を被っている人々、失業といつも隣り合わせの半失業―半就労状態にある不安定な非正規の下層労働者たち、こうしたプロレタリア(無産者、持たざる者、貧民)と連帯し、不公正・不平等でいびつな社会構造を根本から変えていくことが求められている。奪われた「生存権」を取り戻すために、今こそ「新しい社会運動」とそれと連携する「社会運動ユニオニズム」を創り出していくこと、これが何よりも「新しい左翼」にとって緊要な課題だということである。

 これまで体制内化した既成の労働組合は、経済危機の根底にあるのは、貧困に苦しむ人々の存在だということを忘れ、社会的諸権利(生存権)から排除された人々との連帯を軽んじてきた。労働・生活・教育の三大社会権が保障されず脅かされていることが、いびつな階級的・階層的な格差を広げ、「新たな貧困」を生み出しているという「社会的排除」の問題にまったく無関心だった。その結果、非正規労働者を雇用の調整弁とみなす企業との協調を優先してきた既成の労組は自ら存在価値を低めてきたと言える。

 従来、社会運動や労働運動において周縁的(副次的)なテーマだった差別や貧困の根本には社会的排除の問題がある。そこに焦点をあてモーメントにすることによって差別や貧困問題をも包括し、生きるための社会的な権利と連帯を求めるのが、新しい社会運動―労働運動なのである。

(以下9月号に続く)

 

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